『二月に殺して桜に埋める』(鳥トマト)
『二月に殺して桜に埋める』(鳥トマト)を読んだ。日本の片田舎で暮らす女子学生が上京を希望に抱いて志望大学への受験勉強を頑張るストーリーだ。一つ付け加えるとすると、主人公は一話で交通事故に遭う。更にそのショックから「自分の人生」について考え直すきっかけを得て、これまで囚われていた「親の期待に応える」ことへの反発が始まる。
主人公は開業医の家に生まれ国立大学の医学部に入り医者になることを期待された娘である。何不自由なく育ったように見えて自分の好きなことを学べない不自由さを持つ。その主な原因は母親の過度な干渉から生じる無気力さであり、一話では「死ぬまでお母さんに楽しみを奪われながら」暮らさないといけないと思い込んでいた。(後に話中で交通事故に遭い考えが変わる)この母親の振る舞いはかなり印象付けるように描かれており、塾の様子を監視カメラで同時視聴に始まり、主人公が恩師からもらった手紙をあなたのためにならないと破り捨てる、果ては事故で入院している自身の子どもを殴り出血させるなど枚挙に暇がない。この点については主人公自身が「母親自身が医者になれなかったことのコンプレックス」と作中で言及しており、居場所が「家庭」しかない母親の鬱積を一手に引き受けている。これだけなら「ヒステリックな母親」と「教育虐待に苦しむ娘」の聊か旧時代的なステレオタイプな造形なのだが、ここで一味違うのが文字通り「顔のない父親」とその前で態度が豹変する母親である。
主人公の父親は作中で「父」と書かれた紙が顔に張り付いており、全く表情が見えないし言葉も発さない。それに対し母親は父親が帰宅しただけで「きゅるーん」と態度を豹変させ「お仕事大変だったでしょ」とねぎらい「エビフライあるわよー」と声をかける。娘の前とは違う「幼い」動きと表情、それに釣り合わない夫の母親のような行動の尽くし方がアンバランスで気味が悪い。が、もっと気味が悪いのは彼女の夫である。ここまでしても妻に興味はなくノーリアクションで返事もない。恐らく家庭に興味はなく、会話は成立しない。興味はすでに家庭の外にありそれが仕事ならまだよく、すでに別の世界があるのかもしれない。この一シーンだけで「家庭」にしか居場所がないがすでにその家庭すら機能しておらず必死な母親と、それを築き上げた父親の存在がわかる。母親のケア役を放棄した父親の負債をすべて娘が背負っているのだ。
こうした背景を描いた作品は『虐幸のくるちゃん』(木陰ひな田)もあり、こちらは母親のケア役がより生々しく隠ぺいされやすいタイプで(外面がよい最悪のパターン)、母親が父親を嫌っているが状況としては同じである。両親が不仲で、その不満のはけ口が娘に向いている。抑圧された娘は苦しみ「良い娘」であらうとする。この場合の「良い」は「母親にとって」「世間にとって」「都合の良い」「見栄えの良い」ものである。そして『二月に殺して桜に埋める』に関しては、その起因を母親に集約させるのではなく、父親の無関心含む家庭環境のアンバランサによるものだと匂わせているところがおもしろく、これは「女はヒステリックだから」に対する反論のようにもみえる。何しろ『東京最低最悪最高!』の切れ味鋭い女性たちを描かれた方ならば、母親を単なる悪役にする訳がないと思ってしまう。(「クソババア、世にはばかる」と「女は60から」が大好きです。池田さん格好良いっす)
『東京最低最悪最高!』の第三話「クソババア、世にはばかる」に登場する離婚し自分の力で稼ぎ東京で暮らしていく池田さんの対極にあるのが恐らくこの母親で、「良い母親」「良い妻」であろうとし、必死に努力している。そしてそれが幸せなのかどうかは作品から伝わってくるところである。その母親の娘は、文字通り頭が割れるようなショックを受け「良い娘」からの脱却を目指している。受験をとおして大人になり、本当の意味で自立してやろうとする濃厚な成長物語だと思う。
主人公の友人たちの背景も複雑そうで、これから各キャラクターが掘り下げられると思い楽しみだ。
『羅生門』(枝田)
これこそがリメイクだと思った。後頭部が痺れるような暴力的な面白さ。もちろん、ただ芥川龍之介の「羅生門」の筋をなぞっているわけではない。この作品には下人はおろか、老婆も出ない。平安時代ですらない。だからこそすごい。舞台となっているのは現代の女子高である。
「人間失格」や「こころ」と同じように「羅生門」もまた誰もが一度は目にしたことのある作品だろう。読んだことはなくてもタイトルを聞いたことがある、あるいは作品の概略は知っている。そんなものではないだろうか。「羅生門」は芥川によって本来の史跡としての意味以上に善悪を問いかける象徴としての意味を付与されているし、その名を聞けば京のきらびやかな街並みより老婆の佇む混沌とした街の方が想像に難くない。あるいは黒沢明の映画をイメージする人も多いかもしれない。それにも関わらず、この作品はまぎれもない「羅生門」だ。
人気のある作品を映画化、アニメ化、漫画化、など違うメディアに展開していくと必ずと言っていいほど出てくるキーワードがある。「ただのコスプレ」「学芸会」等。服装や髪色、見た目をキャラクターに極限まで寄せてもそれだけでは実写化は成功しないことの裏付けだろう。例えば2020年より四期に分けてテレビドラマ化された『岸部露伴は動かない』は荒木飛呂彦による人気漫画作品だが、作中重要な役割を果たす特殊能力の名称が「スタンド」から「ギフト」に変更されていたり、原作では一話のみに登場していたキャラクターがほぼ全編を通して登場するものになっていたりするが、2023年には映画化されるほど人気のものとなっている。単純に見た目だけの話をすれば、主人公の露伴は緑色のヘアバンドが特徴だが、ドラマでは黒いものとなっており服装も漫画ほど華美ではない。「スタンド」を使用する際にキャラクターの背後に出てくる特殊能力を具現化したもの「スタンド像」もテレビドラマでは出てこない。それでも成立するのは岸部露伴という癖の強いキャラクターの芯をつぶさずにかつ違う媒体に落とし込んでいるからで、それが本当に難しいことだと思う。何といっても二次元のキャラクターを三次元に落とし込むのだ。作品への最大の敬意と深い読解力、そこから搾り出てくるものを再構成するのはどれほど骨の折れる作業だろう。それだけに、こんな風に言いたくはないけれど「成功」した「実写化作品」は本当に面白い。そして、そうした面白さをこの作品からは感じる。
受験が終わって無事志望校に合格した主人公が担任に報告に来る。担任との会話の中で母を交えた三者面談を思い出す。誰もいないと思った教室で級友に遭遇する。要所要所で芥川の羅生門の本文が効果的に引かれている。
「わたしきっとあの人よりずっと幸せだよね」
「下人の眼は、その時、はじめて その死骸の中に蹲っている人間を見た。」
主人公が奔放な同級生、馬場を見つめる時にリフレインするのは下人が老婆を見つけた際のシーンである。名門の進学校で大学に進学もせず校則も破る馬場は異質の存在だった。彼女は馬場のことを見下しつつ、内心はその生き方に憧れを頂いている。ここまでなら青春の一ページなのだが、その後の展開に驚く。冒頭の傘の描写、三者面談、担任との会話でばらまかれた不安の粒が導火線になって、一気に燃え上がっていく。淡々と進む中で静かな緊張感が張り詰めている。
色々な読み方ができる作品だと思うけれども、絶望のようには思えなかった。平坦の言い方をすれば、清濁併せのむ強さを身に着けたというか、絶望しない方法を手に入れたというか。いずれにせよ主人公にはこれまで見ていたものとは違う景色が眼前に広がっていると思う。
30数ページとは思えない、濃厚な時間だった。
※作中に金柑が登場するが、古のオタクとして花言葉を調べずにはいられなかった。なんと「思い出」らしい。天を仰ぐしかない。
『日本の月はまるく見える』(史セツキ)
まず、Pixivを自由に閲覧できない世界を想像してみてほしい。
辛すぎる。辛い、という言葉だけでは言い尽くせない。日々の労働の癒し、日常生活の花、休日の楽しみ、そうしたものが全て無い。「え、これを無料で……」とありまる幸福に動揺することも、「ウホゥ」と興奮しすぎることもない。コメントを悩んで半日煩悶し結局スタンプ以上に気持ちを表せるものがなく、自分の文章能力の無さに絶望することもない。恐らく、22時までには就寝するようになり、有り余るエネルギーをランニングで昇華するようになるだろう。身体は表面上健康になるかもしれないが、心は死んだも同然である。
そんな国でBL漫画を思う存分描きたい、規制にとらわれず自由に漫画を描きたい。そう願う漫画家の卵、夢言(ムゲン)は日本の編集者からオファーをもらったことをきっかけに、国を飛び出す。編集者と、幼馴染の致遠とともに連載を目指しながら文化の違い、感覚の違いに触れていく……というのが現状(1巻での)主なストーリーだ。
好きなものを好き、と言える。誰かと語り合うことができる。それが贅沢というなら、日常生活で不可能というなら、どうなるのだろう。好きなものを好きと言ったら変な目で見られる。あるいは言うことすらできない。改めていうまでのことでもないが、これは「BL漫画」に限った話ではない。「BL漫画」をめぐる文化の違いを通して、色々なものが浮き彫りになってくる作品だ。確かに、このキーワードにおいて、日本は夢言の国より遥かに自由だ。だが視点を変えればそうとも言えない。故郷では「変な人」だった夢言が「だからせめて日本では普通だと思われたかったんだ」と語る場面を見て、「ああ日本は自由でよかったな」と思えるほど単純な作品ではないと思う。誰でも、どんな国の中でも、「変な人」になる/されてしまう 可能性は転がっているからだ。
「「あなたのため」攻撃は夢言に通用しないね」
「こうげき?」
「「あなたのためだから」早く漫画をやめたほうがいいよ 早く結婚したほうがいいよ とか」
(『日本の月はまるく見える』1巻より)
「BL漫画」とその受容を通し、様々なものの見方を考えさせれる作品だと思う。「BL漫画」とそれ以外の二項対立的なものでは決してないし、むしろそうしたところからこぼれるものを掬いあげようとする作品だ。漫画家を志す夢言は、彼女をよく知る人からすれば、故郷では「変な人」。彼女をよく知らない人間からすれば、「変な人」ですらなく、何もしていない「結婚」も「仕事」もない「透明人間」になり得てしまう。冒頭の「相親角」(お見合いの情報交換をする場所)で描かれる「まともな仕事」をしていない夢言の姿は、「仕事といえるのかわからない仕事」をし、「はっきりとした年収」もわからない年齢26歳身長160㎝くらいの女性である。相手に娘の素性を伝える母親の姿も頼りない。「一般的」に夢言がどんな風にみられているのか、よくわかるシーンだ。
「私には 日本の月はまるく見えるんだ」と夢言は言う。ひょっとしたら、夢言の焦がれている世界はまだどこにもないのかもしれない。夢を追った先で絶望するのかもしれない。ただ、今いる場所では好きなものを否定されない。いや、結果がどうであれ、そうならないことを心から祈っている。彼女が「変な人」でも「透明人間」でもない世界で暮らすことと、そうしたいがために奮闘すること。あるいは奮闘せざるを得ないこと。それはそう、遠い世界の話ではないように思う。
『わたしたちは無痛恋愛がしたい 〜鍵垢女子と星屑男子とフェミおじさん〜』(瀧波ゆかり)
「ここ10年の最大の成果は」「私が言葉を手に入れたことです」
(『わたしたちは無痛恋愛がしたい 〜鍵垢女子と星屑男子とフェミおじさん〜』第11話より)
星置みなみ、23才、東京の会社員。パッとしない仕事とパッとしない恋愛(夜だけ現れる男、恵比寿千歳と関係を持っており、みなみ自身もそうした日々を「普通にしんどい」と言っている)に追われる生活を送っている。時折友人の栗山由仁と飲みながら、互いの近況を報告していく会話劇のような場面と、みなみの鍵垢から引かれるモノローグが交錯しながら話が進んでいく。
人数合わせで呼ばれた飲み会のつまらなさ、男性からの悪意のない圧力への不満、日々直面するやるせなさをみなみは鍵垢(フォロワーしか見られないアカウント、みなみの場合は限られた4人のフォロワーのみに向けて発信される)でツイートする。「思ったことは吐き出したいけど、知らん人にジャッジされたくないから」みなみは自身の気持ちをそこに書く。
由仁は数少ないフォロワーの一人で、「みなみの文章が好き」、もっと広く発信すれば良いのに、とみなみに言ったこともある。実際、10年後にはみなみは文筆業で食べていけるようになっており、半ば予言のようなこのセリフから由仁がよくみなみを観察している、見守っていることがわかる。(こうした細やかさが仇になり、後に由仁はみなみとの友人関係に疲れる)
みなみ、由仁、そして元ジュニアアイドルで婚マスのうずらちゃん(2人の友人でインフルエンサー)。20代の3人を中心に話は進み、第10話からは3人の10年後が描かれる。冒頭に引用させていただいた作中の言葉のとおり、10年後のみなみは
「ささいな違和感やモヤモヤを 解きほぐして言語化していくことで
私は少しずつ「それってどうなの?」と言える私になったのだ」(第11話より)となった。
ここで対象的なのが、「キラキラ人生担当」(第10話より)のうずらちゃんだ。
タワマン、インフルエンサー、青年実業家と結婚、と「キラキラ」な結婚生活を送るうずらちゃんだったが、彼女もまた、第15話(「私の怒りをジャッジするな」)にて「吐き出し用の鍵アカ」を持っていることが判明する。
終始育児と鍵アカのつぶやきが交互に入交りながら進むこの話では、うずらの本心は「鍵アカ」だけに吐き出される。ワンオペ家事育児に疲れ果てたうずらにとって鍵アカは本心をぶちまけられる場所なのだ。吐き出されたうずらの怒りは誰にも見られない場所で埋もれていく。
最新話ではうずらの夫サイドがフォーカスされており、これもまたおもしろい。うずらの夫清隆のモノローグ「別に知りたくないんだよ いちいちそんなこと……」(第18話「男の度量」)にすべてが凝縮されている。タイトルから、恋愛色が強いのかと思えば以外にもそうじゃない。結婚、恋愛、仕事、ふとした生活の中で直面する痛みに向き合いながら、懸命に生きていく女の子たちの話である。(もうみなみ、由仁、うずら、うずらの子の4人で暮らしたら幸せになるのでは……と思わなくもないくらい、10年後のみんながカフェにあつまるシーン(第17話「言いたい、言えない」)にはほっこりした)
『谷崎マンガ変態アンソロジー』
『谷崎マンガ変態アンソロジー』(中公文庫)を読んだ。2016年に生誕130年を記念して刊行されてた『谷崎万華鏡』を再編集し文庫化したもの。榎本俊二、今日マチ子、しりあがり寿、中村明日美子、古屋兎丸、山口晃ら豪華作家人による谷崎の作品をテーマにした作品が収められている。
掲載されているのは「青塚氏の話」「痴人の愛」「夢の浮橋」「瘋癲老人日記」「陰影礼賛」「続続羅洞先生」「猿が人間になった話」「少年」「颷風」「台所太平記」で晩年にいたるまでの様々な作品が描かれている。(久世番子「谷崎ガールズ」だけは導入作品のような感じで谷崎の女性観を紹介するものになっている)
映画やドラマ、舞台とこれまで様々にメディアミックスされてきた谷崎の作品があらためて現代のマンガに描かれなおされるとあって小説に忠実なものもあればまったく新しい作品にリライトされているような印象を受けるものあり、アンソロジーという名前のごとく作家ごとに異なる読後感が楽しい。
特に楽しかったのは「谷崎ガールズ」と「台所太平記」。
最初の結婚から小田原事件、丁未子との短い結婚生活、最後の結婚、晩年の義理の息子の嫁、千萬子への手紙など女性関係をガイダンスで廻れるのが「谷崎ガールズ」。短いページで女性観がたどれて楽しい。「丁未子さん 宮崎あおいさん似でかわいい~」には激しく同感。当時のカメラとお化粧でこれくらいかわいく映るんだから相当な美人だったんだろうなあと妄想してしまう。最初に奥様千代さんが「良妻賢母」タイプだったから、谷崎の気に召さなかった。というのに対しても「どこが気に入らないの!?」という突っ込みがおもしろい。今でも相当にスキャンダラスな……というか、正直ひいてしまうような内容で(「細君譲渡事件」という名前からしていけすかない)これは相当なバッシングをくらったろうなあと思う。
「台所太平記」は読めば原作が読みたくなる。女中さんという文化自体が今では遠い文化ですが、女性の働く場所がなくそれが当たり前だった時代の家主と女中の交流。戦前、戦中から戦後にかけて数人の女中をとおして生活が描かれているので、戦後の社会のうつりかわり、封建社会が変わっていく様を見るうえでの文化史としても面白い。結婚が今より重視されていた時代、女性は本当大変だったな……とつくづく思う。料理が当然のようにできて、裁縫も当然のようにできて、子育てが上手で、気立てもよくて、金勘定もできて、夫を立てて、見目もいいのが望ましいなんて、無理難題もいいところだ。すべてできて当たり前で減点方式にもみえる社会の眼は本当に厳しかったよなと思ってしまう。そんななかで、千倉家の主人とそこに長年つかえる女中「初」との結婚をめぐる会話は幾分のんびりしていて好きだ。
初は見目はけしてよくないと書かれていて、ただ料理上手、清潔感、スタイルが良い、また谷崎にとっては重大なことだが足裏がつねにキレイと美点が多いため、家主がとても好きだった女中のひとり。40歳近くなり縁談がないことを不安に思ったある日、
「先生、私でもお嫁に行けるでせうか」
と初は思い余って尋ねる。それに対し千倉家の主人は
「ああ行けるともさ、きつと行けるから心配することなんかないよ」
と心から思って答える。
ここで嘘でもよいから言った、とかでなくて「何も気休めのつもりではありません」
「世間の奴等は眼が利かな過ぎる」というところがなんとも谷崎らしくて良い。半ば長年面倒を見てきた娘を見る親のような気持ちなのかなあと思わなくもない。
筆?のようなやわらかいタッチでえがかれた場面が陽だまりのようなあたたかさでもって伝わってきて、おだやかな時間が感じられる。
お正月にあらためてゆっくり作品を読み返したくなった。
『違国日記』(ヤマシタトモコ)
日記を書くというのはひどく孤独で危うい行為だと思う。土佐日記、和泉式部日記、断腸亭日乗、戦後日記、日本文学だけを取り上げてみても、日記に仮託された(あるいはそこから生まれた)作品は数多くある。半ばいつか誰かに読まれることを期待して――とまでは言わないし、いささか強引な話だとはわかっているのだが、自分が読むためだけに書かれた日記というのは、傷一つない貝殻を海で探すくらい見つけるのが難しいものではないかと思う。『違国日記』(ヤマシタトモコ)を読みながらそんなことを思った。
「日記は 今書きたいことを書けばいい 書きたくないことは書かなくていい
本当のことを書く必要はない」(『違国日記』1巻)
槙生の言う「本当のこと」は、交通事故で両親を亡くした姪・朝を包む「ぽつーんとした」孤独だ。夕焼けが差し込む部屋の中、ペンを持ったまま固まる朝に槙生はそう言葉をかける。
「……日記なのに?」
「日記なのに 別に誰にも怒られないし」(『違国日記』1巻)
槙生の言葉を受け朝は不思議そうに尋ね返す。槙生の言葉には、言外に「日記」は自分のためだけに書かれるものだ、という意味がこめられているようにも読める。小説家の槙生にとって書くことは「書かない人のほうが知らないんだね 物語なんて 嘘だってこと 食べたことない ごちそうみたいに思ってる」(『違国日記』6巻)でもある。
日記、と付けられたタイトルのとおり作中にはいくつかの日記が登場する。その中のひとつで、この朝の日記と対になるものが、恐らく朝の母、実里の遺した日記だ。遺品整理の際、槙生が見つけ朝にわたすタイミングを見計らいながら保管していたものだ。(行き違いによりその日記を隠しているように思ってしまった朝は母の日記を盗み読んでしまう。)母の日記を読むことは、朝にとって大きな穴の底を覗き込むような作業だったという。自身の名前の由来、朝への思いがつづられたそれには「朝 お母さんはあなたが大好きです」と書かれていた。朝はそれを読みながらひとり「こんなの 嘘かもしんない わかんないじゃん なんでも書けるもん わかんないじゃん わかんないじゃん」(『違国日記』5巻)と呟く。
槙生はいくらでも「物語」をつくりだすことができる。だが、ここでは彼女のほしがる「嘘」を与えない。「あなたのありようを見ていると あなたは愛されて育ったのだろうなとわたしは思う」(『違国日記』5巻)と語りかけながらも、日記に書かれた母の気持ちを代弁する真似はしない。その夜、朝はようやく「おとうさんとおかあさん… 死んじゃった……」と涙を流す。
この日記は誰に向けて書かれたのかが明らかで、「あなたが20歳になったらあげようと思って 書きはじめました」と記されている。ただ、槙生の言うように、これが本当に朝に渡すために書かれたものなのかは断言できない。実里が生きていれば渡す選択も渡さない選択もできたからだ。「自分のために書かれた日記」なのか、「朝への手紙」なのか。それがもし「本当のこと」でなかったら? 母が亡くなってしまった今、朝にそれを知る術はない。結果として娘の手に渡った母の日記は、多重な意味合いを持つ。
もうひとつ、母親の書いた日記が登場する。槙生の友人で元恋人の笠町氏の母親が書いた「弁当日記」だ。学生時代息子の弁当をつくった際の記録で、詳細にレシピが記されている。朝に持たせる高校の弁当を作る際の参考にと、笠町氏が槙生に貸し出したものだ。所々に息子への思いも記されている。笠町氏の父親は強硬な人物で家父長制とパワハラを練って固めてできたような描かれ方をしており、そんな環境の中で母親がした「書く」ことは、何かの意味を持つように思う。
偶然なのかはわからないが、現状作中に登場する「日記」はすべて女性が書いたもののようだ。「日記」がもつ意味合いを考えながら、また再度作品を読み返したいと思う。
『地図にない場所』(安藤ゆき)
『地図にない場所』(安藤ゆき)を読んだ。表紙の淡いカラーが美しくて、思わず購入。帯に「人生終わった2人の、ご近所探訪記」とあるように、フランスのバレエ団に所属していたのに、足の怪我(後に作中で怪我は嘘で母親の死から、目的を失い自らの意思で退団したことが明かされる)か原因で引退した天才バレリーナ•宮本琥珀と、自分の頭の良さに限界を感じ、苦労して入った進学校で行き詰まる•中一の土屋悠人が主人公。
2人はマンションのお隣さんで、琥珀が帰国するまで交流はほとんどなかったが、回覧板のやり取りをきっかけに、少しずつ親交を深めていく。悠人は当初、自分の境遇から、「俺より終わってそうなやつが見たい」と、やじうま根性まるだしで琥珀を訪ねるのだがー、琥珀が思ったより生活能力皆無、面倒を見るうちに生まれた琥珀との交流に、「家」、「学校」にはない安らぎをおぼえていき、ふたりの都市伝説探しが始まるーー。というのが、大まかなストーリーだ。
作中のテーマになる「地図にない場所」、「イズコ(何処)」は、悠人や琥珀の小学校で流行って都市伝説で、代々「イズコ探し」、地図にない秘密の場所を探すあそびのようなものとして受け継がれている。琥珀(30歳)が小学生の頃にも、一ヶ月ほどブームがあり、悠人の代にも引き継がれていることを知った琥珀は、もう一度「イズコ探し」をしようと、悠人に持ちかける。
とにかく情報収集して効率的に!という悠人の提案は琥珀に退けられ、あてもなく、町をくるくる探検しながら、イズコを探すふたり。コンビニでアイスを買ったり、公園で食べたり。アイスを食べたこともない、という琥珀に驚きつつも、「日常の感覚が全然違うんだろうな」と、町歩きを楽しむ。
キュートな琥珀に目がいくが、発言はシビアだ。悠人の「天才」発言に対し、自分は天才じゃない、「才能以上のことをしてたの。バレエと引き換えに。何もかも全部捨ててやっただけ。」と話す。
(それを天才と言うのでは…??とあとで悠人が気づくシーンがあるが)
そもそもがイズコ探しも、小学生の頃したかったけど出来なかったことのひとつで、「放課後はすべてバレエ」だった琥珀が、追体験をするような意味合いがある。
悠人の友達、すず(中学受験組)もバレエを習っているが、プロになるほどの才能はないことを自覚している。楽しいから続けたいが、親からは早くやめて、勉強に専念して欲しいと言われている。すずもまた、「無駄な時間」を奪われそうなひとりだ。
琥珀にとって、全てを捧げたバレエが、すずにとって(正確には、すずの親にとって)は、その逆のものになっている。それはあくまで贅沢な時間、いつか飽きる「イズコ探し」のようなもので、時期がきたら辞めるものだと。親の意思がわかっていても、すずはバレエを続けたくてたまらない。どうか続けて欲しいと思う。
一巻はふたりのイズコ探し町歩きまでが収録されている。二巻以降、琥珀とバレエがどう関わっていくのかー今からとても楽しみだ。