『扇島歳時記』(高浜寛)

『扇島歳時記』(高浜寛)を読んだ。表紙の美しさにひかれて購入。着物エプロンとか、レースとか、袴にブーツとか、和洋折衷なファッションっていいよね…。好き。よく見ると、ポストカードになっているところも芸が細かい。

 

1860年代の長崎・出島、丸山遊郭を舞台にした作品。黒船来航、開国後の過渡期の長崎ということで、出島には各国の商人たちが出入りしており、国際色豊かな色を見せいる。

この時代設定が絶妙で、1866年(慶応二年)から物語がスタートしているため、翌年に大政奉還、その翌年に「明治」新元号が制定されることがわかり、この物語が2年間の過渡期の記録であることを読みながら意識せざるを得ない。

主人公は14歳のたまを。廓で生まれた少女で禿をしている。素直で感性の鋭い子で、出島で暮らすオランダ領事館のトーン先生(たまをと仲が良い)には「独特の物の見方をするけれど頭の良い子」と評されている。空想癖があり、トーン先生にプレゼントされた鳥のブローチと話したりすることもあって、「ちょっと変わった子」と受け止められることも多い。

 

そんなたまをが太夫「咲ノ介」に同行し、咲ノ介が抱えられた出島のハルトマン家で家事全般を担いながら、出会う人々、出来事を穏やかに描いた作品である。慣れないコーヒーを入れるのに苦労したり、クリスマスの準備を見にいったり、トーン先生の家族のために反物を選んであげたり…。日々の時間がたまをの視点を中心にゆったりと過ぎていく。(ただ、「あっという間に半年」「もっとゆっくりでもよい」などの言葉が作中で出てくるとおり、単なる穏やかな時間、という感じではない)

 

表紙がポストカード風になっており、差出人は出島で暮らすフランス商人の息子、ヴィクトール。父親が丸山遊女との間に子をもうけており、その子らが暮らす家には何となく居づらく、家族とうまくいっていない少年。生真面目な性格で、同じく出島で暮らすやんちゃなモモ(おそらく丸山遊女と外国人との間に生まれた子)と気が合い、二人で将来の夢を語り合ったり、大晦日にこっそり家を抜け出して、夜の街を歩いたりする。

このヴィクトールがたまをに淡い好意を寄せており…(初めて家の窓から見たとき、「なんて綺麗な女の子 日本人形みたいだ…」と言っている)言葉がお互い満足に通じない中、挨拶を交わしたり、名前を教えたり、ヴィクトールから花冠を贈ったりしている。言葉が通じない割にはわかりやすい好意を寄せているが、たまをには現状あまり響いていない。

 

この、モモには日本語がわかるが、ヴィクトールには片言しかわからない、というところが細かいがおもしろい。出島の日本人とのやり取りも、ヴィクトールにはわからず、夜の街の女性とのやり取りもわからない。「出島」での細かな意思の疎通がはかれないことから、(もちろんそれだけではないが)モモにとってヴィクトールは自分より事情に通じていない「いい子」であり、彼を子ども扱いする場面もある。

 

1巻は、たまを、咲ノ介、遣手のおたきさん、トーン先生、ヴィクトール、モモ、トーン先生の料理人の岩次(モモの養父)、出島警護の島田らが登場する。最後に収められている話には、咲ノ介がハルトマンに「ik hou van jou(愛しています)…」とささやかれる場面もあるが、いかんせん時代が時代でなんとも言えない。

ちなみにここも言葉の壁で「あれ 何て 言いなんしたので おっしょ」と咲ノ介には伝わっていない。そしてハルトマンは作中を見るに、たまをと意思疎通が図れる、日常会話レベルの日本語が話せるので、おそらく確信犯でオランダ語で話しているところが、なんとも…。

 

巻末の次巻予告では「ひとつの時代の終焉が 日本の四季と異国の文化が交わる長崎に 血と火薬のにおいを運ぶ」と書かれており、不穏でしかないが、気になってしょうがない。

 

この作品、『ニュクスの角灯』『蝶のみちゆき』に連なる「長崎三部作」最終章、ということなので、ほかの作品も読んでみたいな…と思う。