「ユリイカ 9月号 女オタクの現在-推しとわたし」

昔男性に「少女漫画は読まないから。」と言われたことがあった。

ユリイカ  女オタクの現在-推しとわたし」(青土社、2020年9月)を読みながら、ふとそんなことを思い出した。

「少女」「漫画」「は」「読まない」、それが何を指すのか、「私の推した作品」が嫌だったのか、「少女漫画」が嫌だったのか、よくわからないけれど、妙にきっぱりとしたもの言いになんとなく面食らってしまった記憶はある。そして私はこうした経験を、その後何度かくらった。

 

ユリイカ 女オタク』号には、漫画、アニメーション、ゲーム、特撮、BL、夢小説、アイドル、舞台、映画、バンド、などタイプの異なるオタクたちに関する論考が掲載されている。わざわざ「女オタク」と題しただけあって、そのカテゴライズに対する意見を書いているものも多い。

 

「女オタクという言葉に、居心地の悪さを感じる。例えば歴女や、最近炎上した美術館女子と同じ違和感。」(綾奈ゆにこ「推し依存症」)

「それを打ち壊すために一旦まだ「女〇〇ですが何か?」を言ってかなきゃいけない時期、なのかもしれない。まだ。」(王谷昌「推しと萌えとオタクと女」)

「それにしても好き勝手な名称をつけられてあれこれ呼ばれてきたものだ、と呆れてしまう。」(岡田育「呼ばれた名前で」)

 

確かに、「女オタク」という言葉には、なんとなく断絶を感じる。どことなく窮屈な感じがする。

ただ現在の社会環境下では、「となると女性だけで楽しめる場というニーズも大きかろう。」(佐倉智美「オタクに男女はあるのか ジェンダーの桎梏を超えて」)という点もあるだろうし、一概にそれが悪ともいえない。

どうして「女オタク」というカテゴライズが必要になったのか、それがうまれたのか、というところである。それについては先にひかせていただいた論考や、掲載されている言説に書かれているので、掘り下げないが、「オタク」とは違う社会環境下に置かれてきたことは疑いようがない。

 

「女オタク」という区切りは、「オタク」が「女性ファン」の中に入ることの大変さをつくるものでもある。

今はだいぶ時代が変わってきてはいるけれど、それでも男性が男性アイドルのコンサートに行くと、「大勢の女性ファンの集団の中でどうしても肩身が狭いらしい。」(佐倉智美「オタクに男女はあるのか ジェンダーの桎梏を超えて」)し、逆に「女性が鉄道オタクをするためには「鉄子」などという特別が名称が必要」になってしまう。

 女性/男性ファンが少ない(あるいは、少ないとみなされてしまっている)ファンダムに飛び込むことは、双方にとって中々つらいものがある。(女性/男性で区切ることそのものについては、古怒田望人/いりや「女オタク*」、ト沢彩子「女性を眼差すオタク女性の葛藤と希望」で言及されている)

どうしたって、少数派の立場はつらいし、「私は『スターウォーズ』のファンダムではいないことになっている女性のファンであり、ライトなファンなのでたいして知識があるわけでもなく、それに少ないとはいえ存在はしている女性ファンの活動にも馴染めず」(北村紗衣「私たちは帝国だったんだけど、とはいえ私はストームトルーパーにすらなれないかもしれない」)という状況下に置かれることになる。だが、どうしようもない「推し」に出会ってしまったとき、私たちは抗えないし、「推し」への思いと疎外感に挟まれながら、むしろ好きにならなかったほうが人生楽だったんじゃないかとか思いながら、沼から抜けることができない。

 

ファンにとって、「推し」への思いとエネルギーは、間違いなく人生を楽しませてくれるものだと思うけれど 、「推し、楽しい、生きてる!」で終わらないのが『ユリイカ』である。「消費する私たち」という視点をからめながら、オタクたちの欲望について紐解いていく。田中東子「のがれること・つくること・つながること」を読んで、ファンとしての自分と、その欲望について考えさせられることも多かった。ファン、オタクである以上、作品とその消費については切り離せない関係性があると思う。けれども、やっぱり「推し」がないと生きていけないのである。だからこそ、そこに「既存のくびきから私たちを切り離すと同時に、新しい関係へとつないでくれる可能性を秘めいてるー」(田中東子「のがれること・つくること・つながること」)ことを信じたいと思う。

 

しかし今号の『ユリイカ』のページをめくる手は重かった。単純に情報量が多い(普段ふれないオタク分野をのぞきみることができておもしろかった)のと、強制的に自身のオタク生活をかえりみることになり、という点である。中高のオタク生活が走馬灯のようにめぐり、「毒吐きネットマナー」を見ただけで瀕死である。体力のあるときに読むのが望ましい。