『少女マンガのブサイク女子考』(トミヤマユキコ)

買ったものの読まない本はある。『少女マンガのブサイク女子考』(トミヤマユキコ)もその一冊だった。読まねばという思いと、タイトルのごつさ、そして表紙のファンシーさが混じりあい、机の上で積まれたままだった。

なぜ買ったのかと言われれば、気になったからとしか答えようがないし、なぜ師走に読み始めたのか、と言われれば、年の瀬&新年の支度からの逃避行としか言いようがない。

 

タイトルが『少女マンガのブサイク女子考』である。

「ブサイク」である。容赦がない。[i]

 

この4字は、「ブス」より、もう一段ランクが高い感じがする。

「ブス」がHBだとすれば、「ブサイク」は4Bくらいはありそうだ。

動揺のあまりよくわからない例えをしてしまったが、とにかく強いパワーを感じさせる4字、それが「ブサイク」だと思う。

 

少し前にその名前をもじった男性アイドルグループが流行ったが、彼らは到底その4字とは程遠い世界の住人であり、日本人の謙虚さを改めて感じさせられたものだ。

 

アイドルとブサイクは、現状強く結びつかない、というのは、現状においては(その良し悪しを別として)割に同意を得られる認識だと思う。それと同じように、「少女マンガ」と「ブサイク」も、すぐには繋がらない人が多いのではないのだろうか。 

あるいは、食べ合わせの悪さを想像し、3秒先に想像できる地獄に呼吸が止まる人も多いかもしれない。私もどちらかといえばそのタイプであり、「ルッキズ…ム」と呟いたまま年越しそばをのどにつまらせるかと思ったが、いかんせん、読み終えたあと、ますます少女マンガを読みたくなってしまうので困る。

 

これは、前書きにもあるとおり、「美醜の問題が少女マンガ家たちにとって取り組み甲斐のある題材」であることの裏返しだし、その中で「美人は得でブサイクは損、みたいな単純な二項対立を乗り越えていくような作品」が生まれ続けていることも、読んでいくなかでわかっていく。

 

言うまでもなく、この美醜の問題はヒロインの恋に起因するものが多いのだが、「恋をしたから綺麗になったよ!」で済む話は百億年前に終わっており、現代の少女マンガでは、「落ち込んでいるヒマはねえとばかりに、研鑽を積みまくって」(「『俺物語!!』の猛男が女だったらどんな感じ? 『終電車』」)「あたしの人生の主役はあたしだ!!」と叫び、最終的には「まずは自分が自分の気持ちを受け入れてあげなくちゃ。」というところに落ち着いていく。ヒロインは、恋をするものの、憧れの彼に近づくために、自分を認めるところから始めようとする。読みながら、こうした作品を学生時代にもっと読みたかった…!と膝を打った。

 

自分を認める、というのは本書においても重要なテーマの一つのように思う。

 

「「醜さ」の」の呪いが解けたあとに残るもの 『半神』『イグアナの娘』」では、母親による言葉の虐待で、「自分は醜いイグアナで、「妹」マミはかわいい女の子。」と信じ込んだまま大人になる主人公を描く、『イグアナの娘』(萩尾望都)が取り上げられている。「家庭という狭い世界で自分を客観視する術を持たなかった」主人公は、イグアナとして生き続ける。彼女の本当の姿が、他人にどう映るかはわからない。物語のおしまいにタイトルの「娘」という意味が、きちんと回収されたとき、「ルッキズム」と「自己認識」について考えざるを得ない。

 

イグアナの娘』は、本当に彼女自身が「母親」の言うような外見なのかは、はっきりとはわからない。「自身が醜い」という母親にかけられた呪いが、彼女自身を形成しているからである。こうした、ルッキズムに付随する呪いも、『宇宙を駆けるよだか』(川端志季)、『王子様はマリッジブルー』(わたなべ志穂)をとおして論じられている。

 

「ブサイク」を取り上げていることで、「ブサイク」をめぐる認識について言及されており、「わざとブサイク」になることで、恋の舞台から退場し、男女間のめんどくさいことから逃れられる、そんな「ブサイク的なふるまいで身を守る」ことについても、「非常にやりきれない話」としながら、事例として取り上げられている。(なお、紹介されている少女マンガのなかで、やりきれない作品は断トツで『エリノア』である。地獄を煮詰めたらおそらくあんな感じになる。)

読みながら、少女マンガの多様さに改めて気づかされた年末だった。

 

 

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[i]念のため補足すると、「ブサイク」という言葉自体に対して、「他人に向かって言うことはあってはならないし、自称する自由はあると思うものの、その機会がなければないに越したことはないと思う。」と前書きに書かれている。フィクションの中で描かれる「ブサイク」をとらえ、ルッキズムや自己認識の問題を考えるうえでこの言葉が用いられている。

 

 

 

 

 

『扇島歳時記』(高浜寛)

『扇島歳時記』(高浜寛)を読んだ。表紙の美しさにひかれて購入。着物エプロンとか、レースとか、袴にブーツとか、和洋折衷なファッションっていいよね…。好き。よく見ると、ポストカードになっているところも芸が細かい。

 

1860年代の長崎・出島、丸山遊郭を舞台にした作品。黒船来航、開国後の過渡期の長崎ということで、出島には各国の商人たちが出入りしており、国際色豊かな色を見せいる。

この時代設定が絶妙で、1866年(慶応二年)から物語がスタートしているため、翌年に大政奉還、その翌年に「明治」新元号が制定されることがわかり、この物語が2年間の過渡期の記録であることを読みながら意識せざるを得ない。

主人公は14歳のたまを。廓で生まれた少女で禿をしている。素直で感性の鋭い子で、出島で暮らすオランダ領事館のトーン先生(たまをと仲が良い)には「独特の物の見方をするけれど頭の良い子」と評されている。空想癖があり、トーン先生にプレゼントされた鳥のブローチと話したりすることもあって、「ちょっと変わった子」と受け止められることも多い。

 

そんなたまをが太夫「咲ノ介」に同行し、咲ノ介が抱えられた出島のハルトマン家で家事全般を担いながら、出会う人々、出来事を穏やかに描いた作品である。慣れないコーヒーを入れるのに苦労したり、クリスマスの準備を見にいったり、トーン先生の家族のために反物を選んであげたり…。日々の時間がたまをの視点を中心にゆったりと過ぎていく。(ただ、「あっという間に半年」「もっとゆっくりでもよい」などの言葉が作中で出てくるとおり、単なる穏やかな時間、という感じではない)

 

表紙がポストカード風になっており、差出人は出島で暮らすフランス商人の息子、ヴィクトール。父親が丸山遊女との間に子をもうけており、その子らが暮らす家には何となく居づらく、家族とうまくいっていない少年。生真面目な性格で、同じく出島で暮らすやんちゃなモモ(おそらく丸山遊女と外国人との間に生まれた子)と気が合い、二人で将来の夢を語り合ったり、大晦日にこっそり家を抜け出して、夜の街を歩いたりする。

このヴィクトールがたまをに淡い好意を寄せており…(初めて家の窓から見たとき、「なんて綺麗な女の子 日本人形みたいだ…」と言っている)言葉がお互い満足に通じない中、挨拶を交わしたり、名前を教えたり、ヴィクトールから花冠を贈ったりしている。言葉が通じない割にはわかりやすい好意を寄せているが、たまをには現状あまり響いていない。

 

この、モモには日本語がわかるが、ヴィクトールには片言しかわからない、というところが細かいがおもしろい。出島の日本人とのやり取りも、ヴィクトールにはわからず、夜の街の女性とのやり取りもわからない。「出島」での細かな意思の疎通がはかれないことから、(もちろんそれだけではないが)モモにとってヴィクトールは自分より事情に通じていない「いい子」であり、彼を子ども扱いする場面もある。

 

1巻は、たまを、咲ノ介、遣手のおたきさん、トーン先生、ヴィクトール、モモ、トーン先生の料理人の岩次(モモの養父)、出島警護の島田らが登場する。最後に収められている話には、咲ノ介がハルトマンに「ik hou van jou(愛しています)…」とささやかれる場面もあるが、いかんせん時代が時代でなんとも言えない。

ちなみにここも言葉の壁で「あれ 何て 言いなんしたので おっしょ」と咲ノ介には伝わっていない。そしてハルトマンは作中を見るに、たまをと意思疎通が図れる、日常会話レベルの日本語が話せるので、おそらく確信犯でオランダ語で話しているところが、なんとも…。

 

巻末の次巻予告では「ひとつの時代の終焉が 日本の四季と異国の文化が交わる長崎に 血と火薬のにおいを運ぶ」と書かれており、不穏でしかないが、気になってしょうがない。

 

この作品、『ニュクスの角灯』『蝶のみちゆき』に連なる「長崎三部作」最終章、ということなので、ほかの作品も読んでみたいな…と思う。

 

「ユリイカ 9月号 女オタクの現在-推しとわたし」

昔男性に「少女漫画は読まないから。」と言われたことがあった。

ユリイカ  女オタクの現在-推しとわたし」(青土社、2020年9月)を読みながら、ふとそんなことを思い出した。

「少女」「漫画」「は」「読まない」、それが何を指すのか、「私の推した作品」が嫌だったのか、「少女漫画」が嫌だったのか、よくわからないけれど、妙にきっぱりとしたもの言いになんとなく面食らってしまった記憶はある。そして私はこうした経験を、その後何度かくらった。

 

ユリイカ 女オタク』号には、漫画、アニメーション、ゲーム、特撮、BL、夢小説、アイドル、舞台、映画、バンド、などタイプの異なるオタクたちに関する論考が掲載されている。わざわざ「女オタク」と題しただけあって、そのカテゴライズに対する意見を書いているものも多い。

 

「女オタクという言葉に、居心地の悪さを感じる。例えば歴女や、最近炎上した美術館女子と同じ違和感。」(綾奈ゆにこ「推し依存症」)

「それを打ち壊すために一旦まだ「女〇〇ですが何か?」を言ってかなきゃいけない時期、なのかもしれない。まだ。」(王谷昌「推しと萌えとオタクと女」)

「それにしても好き勝手な名称をつけられてあれこれ呼ばれてきたものだ、と呆れてしまう。」(岡田育「呼ばれた名前で」)

 

確かに、「女オタク」という言葉には、なんとなく断絶を感じる。どことなく窮屈な感じがする。

ただ現在の社会環境下では、「となると女性だけで楽しめる場というニーズも大きかろう。」(佐倉智美「オタクに男女はあるのか ジェンダーの桎梏を超えて」)という点もあるだろうし、一概にそれが悪ともいえない。

どうして「女オタク」というカテゴライズが必要になったのか、それがうまれたのか、というところである。それについては先にひかせていただいた論考や、掲載されている言説に書かれているので、掘り下げないが、「オタク」とは違う社会環境下に置かれてきたことは疑いようがない。

 

「女オタク」という区切りは、「オタク」が「女性ファン」の中に入ることの大変さをつくるものでもある。

今はだいぶ時代が変わってきてはいるけれど、それでも男性が男性アイドルのコンサートに行くと、「大勢の女性ファンの集団の中でどうしても肩身が狭いらしい。」(佐倉智美「オタクに男女はあるのか ジェンダーの桎梏を超えて」)し、逆に「女性が鉄道オタクをするためには「鉄子」などという特別が名称が必要」になってしまう。

 女性/男性ファンが少ない(あるいは、少ないとみなされてしまっている)ファンダムに飛び込むことは、双方にとって中々つらいものがある。(女性/男性で区切ることそのものについては、古怒田望人/いりや「女オタク*」、ト沢彩子「女性を眼差すオタク女性の葛藤と希望」で言及されている)

どうしたって、少数派の立場はつらいし、「私は『スターウォーズ』のファンダムではいないことになっている女性のファンであり、ライトなファンなのでたいして知識があるわけでもなく、それに少ないとはいえ存在はしている女性ファンの活動にも馴染めず」(北村紗衣「私たちは帝国だったんだけど、とはいえ私はストームトルーパーにすらなれないかもしれない」)という状況下に置かれることになる。だが、どうしようもない「推し」に出会ってしまったとき、私たちは抗えないし、「推し」への思いと疎外感に挟まれながら、むしろ好きにならなかったほうが人生楽だったんじゃないかとか思いながら、沼から抜けることができない。

 

ファンにとって、「推し」への思いとエネルギーは、間違いなく人生を楽しませてくれるものだと思うけれど 、「推し、楽しい、生きてる!」で終わらないのが『ユリイカ』である。「消費する私たち」という視点をからめながら、オタクたちの欲望について紐解いていく。田中東子「のがれること・つくること・つながること」を読んで、ファンとしての自分と、その欲望について考えさせられることも多かった。ファン、オタクである以上、作品とその消費については切り離せない関係性があると思う。けれども、やっぱり「推し」がないと生きていけないのである。だからこそ、そこに「既存のくびきから私たちを切り離すと同時に、新しい関係へとつないでくれる可能性を秘めいてるー」(田中東子「のがれること・つくること・つながること」)ことを信じたいと思う。

 

しかし今号の『ユリイカ』のページをめくる手は重かった。単純に情報量が多い(普段ふれないオタク分野をのぞきみることができておもしろかった)のと、強制的に自身のオタク生活をかえりみることになり、という点である。中高のオタク生活が走馬灯のようにめぐり、「毒吐きネットマナー」を見ただけで瀕死である。体力のあるときに読むのが望ましい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『風太郎不戦日記』(漫画:勝田文、原作:山田風太郎)

風太郎不戦日記』を読んだ。忍法帖シリーズなどでしられる、小説家 山田風太郎の『戦中派不戦日記』を題材とした作品である。


昭和20年当時、23歳の医学生だった筆者(山田風太郎)が日々の記録を綴っている。筆者によれば、自分はその頃作家になるつもりはなかったし、「荷風のごとく」(永井荷風による日記文学断腸亭日乗』を指す)読者の目を気にして書いたものではなく、自分自身との対話を目的とした、極めて個人的な記録らしい。

風太郎不戦日記』では、「作家になるつもりはなかった〜」の箇所が冒頭に引かれており、恐らく40代ごろ?の筆者が当時を振り返りながら始まっていく。


漫画ではより、風太郎個人が描いた日記という点が強調されており、紹介文にも「生身の戦中日記。」と書かれている。1巻では読書のシーンも多く、淡々と日常が描かれているが、よくこの内容をこの冷静さで書けるよなぁと驚かされることが多い。作者自身が言うように、「医学生という比較的身軽な立場」ということもあるのだろうが、それにしても淡々と、配給、電車の中での会話、空襲、学校生活が描かれる。


この抑制された感じが、「戦争が日常」に当たり前になれきってしまった感じというのか、何の過激な表現もないのに、何ともいえず怖かった。

日常に溶けこんだ雰囲気、時代に漂っていた空気を描いたのがこの作品なんだなと思った。読みながら自分もその空気に飲み込まれそうな感じがする。


戦中を鑑みてという点からすると、「みずから読み返してみて、八月十五日以前は文語体が多く、以後は口語体が多いような現象が可笑しい。」(山田風太郎『新装版 戦中派不戦日記』講談社)の一言に尽きると思う。漫画では、果たしてその前後がどう描かれるのか、気になってしょうがない。

『異世界もう帰りたい』(ドリヤス工場)

異世界もう帰りたい』(ドリヤス工場)を読んだ。サラリーマンが異世界に召喚されたら…という話である。サブタイトルは「I Want To Go Back Home.」これだけで大体筋がわかる。

 

サラリーマン下山口一郎は、トラックの荷台で作業中、暗闇に閉じ込められ異世界に召喚されてしまう。召喚先は小さな国(経済的にも軍事的にも弱い)で、いずれ起こるであろう西方の帝国との戦争に備えるために、異世界から人材を集めている。その一環として召喚された下山口だったが、いかんせん戦力になる人材ではなく、なんとなく城内で雑用などをして暮らしているうちに、同じく転生してきた鷺ノ宮があらわれて…というのが主なストーリーである。

 

召喚先の世界は作中の言葉を借りれば「中世ファンタジー風」。雑な言い方をすれば、RPGによくある、どこの時代かはわからないが、城と甲冑とやたら木のテーブルが出てくる世界観である。当然、電気ガス水道はない。

 

召喚先では召喚前のスキルを引き継いでおり、目立ったスキルのない下山口は「星1クラス」(星の数が多ければ多いほど評価が高い)の評価を、次に召喚されてきた鷺ノ宮(蒸気機関を自力で作れるくらい技術力がある)は「星3クラス」の評価を得ている。

 

しかし、製鉄技術もあるかどうかわからないこの世界で、一から蒸気機関を作れるレベルで「星3」(5段階か10段階かわからないが)なのは、中々からい採点だなと思った。こんなマッドマックスな世界観では、下山口一郎が家に帰りたくなるのもしょうがない。というか、勝手に異世界に呼び出され、頼んでもいないのに公衆の面前でランク付けされるなど、前世でどんな罪を犯したらこんな罰を受けるのか、と言いたくなるほどの苦行である。それは帰りたい、呼び出した奴ら全員には一度しかるべき方法をとりたい。そもそもが、自国の危機に対し、じゃあ赤の他人のだれかの力を借りてパパっとすまそう、そいつの都合はしったこっちゃないけど、と考えるような国に協力したくない。

 

今や星の数ほどある異世界転生・召喚もののなかで、生まれた一作品ということで、「異世界転生・召喚もの」が共通言語のように作中で使われている。以下それっぽいセリフを抜粋する。

 

ライトノベルによくある異世界に召喚されたというやつなのでは!?」

異世界に来て1か月近くのんびり過ごしていたがついにそれっぽいイベントが来てしまった……」

「ここでおれに秘めたる能力が一気に目覚めて俺ツエー無双がはじまるのかもしれないな…」(『異世界もう帰りたい』1巻より)

 

異世界転生・召喚もので既定事項として起こること「能力の覚醒」「冒険」「活躍」が【ご存じのもの】として作中で描かれている。ややこしくて申し訳ないが、いわば「異世界もの」をパロディにした異世界系作品である。こうした作品が描かれるほど、「異世界もの」はもう定着しているんだなと思った。

 

現状、この作品は「とにかく家に帰りたい」がテーマになっている。1巻最後も「どうにかして元の世界に帰ってやる……」のセリフでしめられている。帰ることが彼の旅の目的のようである。異世界ものでは、大別して、そのままそこに住み着く、両者を行き来する、元の世界に帰るの3パターンがあるそうだが、下山口の意思の弱さでは、意外にそのまま住み着く(あるいは帰れない)ような気もしてならない。

 

 

 

 

 

 

『ねこと私とドイッチュラント』ながらりょうこ)

『ねこと私とドイッチュラント』(ながらりょうこ)を読んだ。猫と同居、海外、と読まない理由がないので購入。期待どおりのおもしろさだった。

 

主人公のトーコちゃんは日本人、女性、ドイツでむぎくんという猫とふたり暮らし中。仕事は文筆業?(作中で明示されていないが、PCに座り込み作業している様子がある)。そんなふたりが、ドイツでゆったり暮らすなかで、出会う食事、食材について丁寧に描かれた作品である。著者のながら先生がドイツで暮らしながら書かれているので、細かな生活の様子が伝わってきてイメージが湧きやすい。特にドイツ語は普段なじみがないので、(かといって、英語ができるわけでもない)単語だけでは何の料理かわからないことが多々ある。その点、イラストが付いていて、食べる様子も描かれていると、わかりやすくて助かる。

 

あくまで、暮らしの中で出てくる食事、なのでゴージャスなものはあまり出てこない。現地の材料で作るおむすび、目玉焼き、焼きソーセージ、ジャーマンポテトなど。

ジャーマンポテトは、ドイツでは「ブラート カルトッフェルン」というものに当たるらしい。ただ、今一回タイプしただけで、心が折れたのでここから先はジャーマンポテトで許してほしい。現地の様子が伝わってきて楽しい、といった矢先にこれで申し訳ない。(作中では、きちんとドイツ語表記で書かれています)

 

ジャーマンポテトは家ごとにレシピが違う、というのは新たな発見だった。勝手にベーコンと芋、と思い込んでいたが、芋煮が家庭ごとに違うように、ジャーマンポテトにも個性があるに決まっている。芋はクリスピーに焼くのは、大体共通するらしい。

 

クリスマス・マーケットの屋台のごはんもどれもおいしそうでそそられる。カルトッフェルプッファーは日本の材料でも作れそうなので作ってみたい。揚げた芋はうまいに決まっている。そして、それを食べるむぎくんがかわいい。

 

作中には様々な食べ物が登場するが、はるか昔、「とびだせ どうぶつの森」時代に、配信されたアイテム、「ベルリーナー」がどんなものだったのかもようやくわかった。なんで名前がベルリンなの…??という謎も解けた。「さつま芋」とほぼ同じ原理だった。カロリーの爆弾のようなお菓子だが、めちゃくちゃおいしそうなので日本でも普及してほしい。(特にリキュール入りのやつ)

 

最新話では、いろいろな種類のキャベツが出てきた。小さいとき、何かの本ででできた「しわしわキャベツ」の正体がわかり、ちょっと嬉しかった。読み終わると、ドイツ料理が食べたくなること必須である。

 

 

『ひとりでしにたい』(カレー沢薫)わけがない。

現在、カレー沢作品を読み返している。これまで五億回読み返したが、今回きっかけとなったのはカレー沢御大のこの記事であった。

rosia29.work

よもや、と思った。『ひとりでにしたい』については、このブログでも書かせていただいた。

『ひとりでしにたい』(カレー沢薫) - sasamitebasakiのブログ

テーマの先進性から、マンガ新聞さんやネット上で多く取り上げられている作品である。売れていると思い込んでいたので、あまりに衝撃であった。

 

とりあえず、草の根運動である。私にカレー沢作品を紹介した父に声をかけたが、返信は「この作品自体は知っているが、生々しくてあまり…」だった。

 

自分がアイアンマンであれば、「あまり…」の3点リーダーについて、何の省略なのか小一時間問い詰めるところである。久々に血沸き肉躍った。仕方がないので1冊買って送り付けた。

 

そもそも父がカレー沢作品にひかれたのは、(グラゼニ目当てに買っていた)『モーニング』に載っていた、不朽の名作『クレムリン』がきっかけである。サラリーマンとして、何かひかれるところがあったらしい。正義ちゃんが好きだと言っていた記憶がある。(私はニャン子ちゃんとホリエさんが好きだ)

昭和から平成にかけてバリバリ働いた父にとって、会社、サラリーマンを舞台にした作品、『クレムリン』はどこか琴線にふれる作品だったのだろう。

頑張る男性をコミカルに、資本主義をシニカルに描いたこの作品は、一見『モーニング』で浮いているように見えながら、実際は何よりも「サラリーマン漫画」だったのだと思う。父はいまだに『クレムリン』の再開はまだか、と時々言っているくらいである。

 

当の私といえば、連載当時は学生であり、読み返している今、ようやく面白さを実感しているところだ。ただ、『クレムリン』も十二分におもしろいのだが、やはり『ひとりでしにたい』のほうが、よりひかれるのである。端的に言えば、カレー沢作品は、情報をアップデートし続けている。

 

クレムリン』で働く女性社員はしずかゃん、あとはモブの女性が多かった。掲載誌との兼ね合いもあるだろうが、物足りないところもあった。(当時から自立しすぎなニャン子ちゃんなど、生き生きとした女性キャラクターは登場する)

 

『ひとりでしにたい』は女性が主人公、専門職、マンションを持っている、愛猫の名前が魯山人。楽しい。それに、これまで、マンションを買った女性が孤独死について考える漫画があっただろうか。

 

同僚(女性)と話す話題も、仕事、介護、奨学金についてなどであり、きっとべグデル・テストも微笑むであろう内容である。

 

「女が結婚しないで子どもを産まないことは 罰当たりなの!?」

「「介護」も女の仕事だと思わてんだな……」

「仕事と家族 どっちが大事? どっちか犠牲にしなきゃいけない状況が異常だっての!」

「「更新されない人」は自分の古い常識で 若い人に平気で無神経なことを言う」

(『ひとりでしにたい』1巻より)

 

少し前に『逃げるは恥だが役に立つ』(海野つなみ)で、登場人物のひとり百合ちゃんが、女性の呪いを解いてくれた、と話題になったが、この漫画もまた、女性にかけられた、あるいはそこにあると思い込んでいる呪縛を解いてくれる作品だと思う。

読後、私も重たい荷物を下ろしたような気持ちになったからだ。

(カレー沢先生のこのブログ記事に通じるところがある

カレー沢先生、独身イジリへの対策法を教えてください! | キノノキ - kinonoki

 

万万が一、この作品をタイトルで敬遠している方がいたら、これは決して孤独死バンザイな漫画ではない。よりよく生きたい、老後困らないようにしたい、という内容をギャグで包みながら書いた作品である。

 

長々とくだらないことを書いてしまった。要は、『ひとりでしにたい』が続いてほしい一心である。

 

クレムリン』が平成のサラリーマン漫画だとすれば、『ひとりでしにたい』は令和のお仕事漫画でもある。この作品をきちんとした形で最後まで読みたいと思うことは、そんなに贅沢な望みなのだろうか。